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Baptism – Dead to Sin, Alive to Christ
洗礼・バプテスマ-「罪に対して死んだ者」「神に生きている者」

20 August, 2017

One of my favourite conversations of all time is recorded in John chapter 3.
私の最も好きな話の1つは、ヨハネによる福音書の第3章に書かれています。

Nicodemus, the great priest and scholar, comes to Jesus, the carpenter, and asks him about God.
大祭司であり学者でもあるニコデモスは、大工であるイエスに会いに来て、神について尋ねます。

That’s an odd thing, don’t you think – a priest asking a carpenter about God?
それは奇妙なことですね、そう思いませんか?立派な大司祭が神様のことをただの大工に尋ねるなんて、おかしいですよね。

He asked because he had heard Jesus teaching about the Kingdom of God, and seen the miracles Jesus was doing and was convinced that this carpenter fellow was someone special of God.
大祭司のニコデモスは、イエスが神の王国について人々に教えていることを聞き、イエスが行なっている奇跡の業を見て、この大工であるイエスが神の特別な人だと確信しました。ですから、ニコデモスはイエスに尋ねたのでした。

He must have been a little shocked when Jesus told him that no-one could enter the Kingdom of God unless he was born again.
イエスが「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と言い、それを聞いた時、ニコデモスは少し衝撃を受けたに違いありません。

He wasn’t only shocked, he was confused.
彼はショックを受けただけでなく、混乱しました。

He didn’t understand.
彼は「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」という意味を理解することができなかったのです。

“How can a man be born when he is old?” he asked.
「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。」と、ニコデモスはイエスに聞きました。

Jesus told him clearly,
イエスはニコデモスにはっきりと言いました。

“Very truly I tell you, no one can enter the kingdom of God unless they are born of water and the Spirit.”
John 3:5

「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。 」
ヨハネによる福音書3:5

There are different views as to what the ‘water’ in this statement means, but some – and me, too – believe that Jesus is speaking of water baptism here.
この聖句の中の「水」が何を意味するのかについてはさまざまな見解がありますが、一部の人々を含め、私も、イエスがここで水のバプテスマのことを話しているのだと確信しています。

To enter the Kingdom of heaven a person needs to be baptised – in water as an outward expression and in their hearts as an inward working of the Holy Spirit.
天の御国に入るには、人は、体で水のバプテスマを受け、心で聖霊によるバプテスマを受ける必要があります。

(Salvation is by faith alone but baptism is an essential part of that faith.
See Mark 2:38, Mark 16:16, Acts 10:48, Matthew 28:19, Romans 10:9, 1 Peter 3:21)
救いは信仰によって施されますが、バプテスマ、洗礼を受けることは信仰をもつにあたって、欠かすことのできない部分です。
そのことは、マルコによる福音書2章、10章、使徒行伝10章、マタイによる福音書28章、ローマ人への手紙10章、ペテロの手紙3章に書かれています。

Baptism is an outward sign of an inward change. It is an outward confession of in inner working of the Holy Spirit.
バプテスマ、洗礼とは心の中に起こった変化を外に向けて表すことを言い、聖霊が自分の心の中で働いていることを、他の人々に大いに知らしめることをバプテスマ、洗礼と言います。
(バプテスマは内的変化を外的に示すこと。聖霊の内なるはたらきを外に告白することです。)

It always amuses me when someone asks, “Are you a born again Christian?”
「洗礼を受けたのだから、もう、あなたはキリスト教徒、クリスチャンに生まれ変わったのですか?」という質問を誰かからされた時に、私はいつも人は不思議な質問をするんだなと思います。

I always reply, “Is there any other kind?” Unless you’re born again – of water and the Spirit – you cannot enter the Kingdom of God; you cannot be a Christian.
私はそのような質問にはいつも、「生まれ変わる以外に、他にクリスチャンになる方法があると思いますか?」と答えます。
そうです。あなたが水と御霊(みたま)によって生まれ変わらなければ、神の御国に入ることはできませんし、あなたはクリスチャンにはなれません。

Today, Shingo will be baptised in water to outwardly confess the Spiritual rebirth that has taken place in his heart as he has received Jesus as his Lord and Saviour.
今日、しんごさんは水の中でバプテスマ、洗礼を受けます。しんごさんはイエスを、主、救い主として受け入れ、そのことによって、自分の心の中で起こった変化に気づき、自分は霊的に生まれ変わったのだということを他の人々に宣言するのです。

Let’s look at the meaning of this baptism in a little more detail as we continue our study of the book of Romans.
ローマ書を続けて読んでいき、この洗礼の意味をもう少し詳しく見てみましょう。

Paul writes in chapter 6,
パウロは第六章で洗礼のことを次のように書いています、

“Don’t you know that all of us who were baptized into Christ Jesus were baptized into his death? We were therefore buried with him through baptism into death in order that, just as Christ was raised from the dead through the glory of the Father, we too may live a new life. For if we have been united with him in a death like his, we will certainly also be united with him in a resurrection like his.”
Romans 6:3-5

3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
ローマの信徒への手紙6:3-5

What does it mean to be baptised into Christ’s death? And what does it mean to live a new life in Christ?
「キリストの死にあずかってバプテスマを受ける」とはどういう意味でしょうか?そして、「キリストのうちにある新しい命のために生きる」とはどういう意味でしょうか?

These questions take us to the very heart of our faith.
これらの質問は私たちを信仰の真髄に触れさせてくれるのです。

In water baptism, going under the water symbolizes the death and burial of our old life and coming up out of the water symbolizes rebirth and resurrection into our new life with Christ.
バプテスマの「水に入る時」は私たちの「古い生き様を捨てる、古い生き方が死にゆく」ことを表し、バプテスマの「水から上がる時」は「新しく生まれ変わる、キリストと共に歩み新しく復活する」ことを象徴しています。

Paul explains in the following verses that being baptised into Christ’s death means that we die to our sins; we count ourselves dead to sin; we are done with sin.
パウロはローマ人への手紙6章の11節で「キリストの死にあずかるバプテスマを受ける」という意味は、「罪に対して死んだ」ということ、私たちの罪は終わったということを言っています。

In the same way, count yourselves dead to sin but alive to God in Christ Jesus. Romans 6:11
このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

This means that the sinful things that we used to do, and the sinful way that we used to speak, and the sinful patterns of our old way of thinking, are finished.
「罪に対して死ぬ」、私たちの罪は終わったという意味は、今までしてきた罪深いこと、今までの罪深い話し方、罪深い考え方はもう終わりだということです。

Referring to 1 Corinthians 6:9,10:
コリント人への手紙6章の9、10節からの引用になりますが、

It means that sexually immoral thoughts and deeds, specifically including fornication, adultery and homosexual practice, are done with, finished, killed off.
「罪に対して死ぬ」という意味は、不品行な思いや行為、特に姦淫、姦通、同性愛行為を含む行為は、終わり、全て抹消されたということです。

It means that coveting what other people have and all forms of stealing, whether it be illegal online downloads, shoplifting, cheating the tax office, or breaking and entering into houses, are done with, finished, killed off.
「罪に対して死ぬ」という意味は、人が持っている物を欲しがる盗みの行為、違法なオンラインダウンロード、万引き、税務署の不正行為、他の人の家に侵入する不法侵入など、すべての盗みの行為は終わり、全て抹消されたということです。

It means that all expressions of greed and selfishness, and failing to love others as we love ourselves, are done with, finished, killed off.
「罪に対して死ぬ」という意味は、貪欲や自己中心の表れや、自分自身を愛するようには他の人を愛せないなどという私たちの自己中心的な考えは、終わった、全て抹消されたということです。

It means that drunkenness and other excesses like gluttony and drug abuse, that desecrate our bodies, which are the temple of the Holy Spirit, are done with, finished, killed off.
「罪に対して死ぬ」という意味は、酒に酔ったりその他の行き過ぎた行為や、
聖い宮であるべき私たちの体を滅ぼす、大食と薬物乱用のようなことは、終わって、全て抹消されたということです。

It means that all forms of slander and gossip, including words that don’t simply harm others but fail to edify them, are done with, finished, killed off.
「罪に対して死ぬ」という意味は、あらゆる中傷や陰口、他の人に危害を加えることはないが、啓発に至らないような、取るに足らない、教えにならないような言葉は、終わり、全て抹消されたということです。

Paul summarizes all this in Romans 6:12, “Therefore do not let sin reign in your mortal body so that you obey its evil desires.”
パウロはローマ人への手紙6章12節で、今までの説明を、次のように要約しています。「だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、」(ローマの信徒への手紙6:12)と言っています。

This doesn’t mean we’re going to suddenly become perfect and free of all moral error.
このことは、私たちが突然、完全になり、すべての道徳的な誤りから解放されることを意味しているのではありません。

But it does mean our lives are fundamentally changed and no sin has mastery over us; no sin any longer reigns in our hearts.
しかし、私たちが、私たちの生活を根本的に変えることにより、罪は私たちとは無縁になります。罪はもはや私たちの心を支配しなくなるのです。

Paul explains not only what it means to die to our sins but also what it means to live a new life in Christ. Simply put, it means we are “alive to God in Christ Jesus” (v11)
パウロは、「罪に対して死んだ者」ということを説明しているだけでなく、「キリストにある新しいいのちに生きる」という意味は、私たちは神に対しては、キリスト・イエスにあって「生きた者になる」ということだと言っています。

To turn 1 Corinthians 6:9,10 around,
第一コリント人への手紙 6章の9、10節を再び読んでみましょう。

A new life in Christ means that we remain sexually pure in thought and deed, understanding the purpose and the joy that God makes available to all people in holy matrimony – godly marriage.
「神に生きた者になる」という意味は、考えや行動において性的に清くあること、神がすべての人々に与えてくれた結婚という契りの尊さと、結婚の目的と喜びとを理解するということです。

It means that we deal honestly with others in all matters of money, possessions, ownership and time.
「神に生きた者になる」という意味は、財産、所有権、時間などの、すべての問題について、人に正直に応対すること。

It means that we learn to be content with our material lot in life (whether we have a little or a lot), and are hospitable and generous with what we have.
「神に生きた者になる」という意味は、満足することを学び、私たちが多少にかかわらず、私たちの生活の中で物質的な欲望に満足することを学び、私たちがすでに持っているものを分け与え、寛大でいるということです。

It means that we endeavour to live physically, mentally and spiritually healthy lives, honouring God with our bodies, our minds and our spirits.
「神に生きた者になる」という意味は、健全に生きる努力をするということです。それは、肉体的、精神的、霊的に健康な生活を送ること、全身全霊、肉体と精神で神を敬うことに努めていることを意味します。

It means we love others with our words.
「神に生きた者になる」という意味は、言葉をもって人を愛するということです。

We build others up, we encourage them, we speak the truth to them in love.
それは、私たちが優しい言葉を用いて、他者を愛するということです。

Our words are instructive and constructive, but at the same time, gentle and kind.
私たちは人を育て、人を励まし、人に愛を持って真実を語ります。私たちの言葉は人を教えることのできる、教訓的であり、教育的な言葉にもなれますが、同時に優しく親切な言葉を発することもできます。

And when they are funny, which I personally recommend, they are not to be at anyone else’s expense.
そして私が個人的にお勧めする言葉は、面白い言葉です。ユーモアのある面白い言葉は誰も嫌な気持ちにさせることはありません。

It means that we reconsider our relationships.
「神に生きた者になる」という意味は、人との関わりを考え直すということです。

We cut ungodly relationships. We renew and heal godly relationships.
それは、私たちの人間関係を再び考え直すことを意味します。私たちは神を中心としないような関係は断ち切り、神聖な関係を見つめ直し、神との関係を修復します。

We forgive others, no matter what they have done to us.
他の人が私たちにどんなひどいことをしたとしても、他人を許します。

No matter what they have done to us.
彼らが私たちに何をしたとしても。

No matter what they have done to us.
彼らが私たちに何をしたとしても。

We rarely forget the hurts, but we choose to not hold those hurts against them.
私たちは傷つき、心に痛みを感じますが、私たちは心の痛みを抱かないことを選ぶこともできます。

This might be something that we have to hand over to God in a daily basis.
傷つかないようにするには、日々、神に任せ、委ねるしかありません。

Even so, we must forgive others.
それでも、私たちは他人を許す必要があります。

Paul sums up this new lifestyle in Colossians 3:14:
このようにクリスチャンになった時の新しいライフスタイルをパウロは次のように要約してコロサイの信徒への手紙3:14に書いています。

And over all these virtues put on love, which binds them all together in perfect unity.
Colossians 3:14

これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。
コロサイの信徒への手紙3:14

Paul sums up in his passage to the Romans, what it means to live a new life in Christ:
パウロは、ローマ人への手紙の中で、キリストを中心とした新しい人生を生きることがどういうことであるかを次のように書いています。

You have been set free from sin and have become slaves to righteousness.
Romans 6:18

「罪から解放され、義の僕となった。」とキリストによる新しい人生を表現しています。
ローマの信徒への手紙6:18

When Shingo is baptised into his new life in Christ, he is also baptised into the body of Christ, the church.
しんごさんがキリストにあって新しいいのちに授かる「洗礼」を受けるとき、しんごさんは同時に、教会というキリストの体を授かる洗礼も受けているのです。

Our church. He becomes our brother, and we become his brothers and sisters.
私たちの教会。しんごさんは私たちの兄弟になり、私たちはしんごさんの兄弟姉妹になります。

He doesn’t walk the faith alone.
しかし、しんごさんはたった一人で神への信仰を深めていくのではありません。

We’re in this together.
私たちはしんごさんと一緒に信仰への道を歩んでいます。

We support him, encourage him, teach him, pray for and with him, and we bless him.
私たちはしんごさんを支え、彼を励まし、教え、彼のために祈り、彼と共に祈り、彼を祝福します。

Remember to do this as he lives out his new faith.
しんごさんが信仰を持って新しい人生を生きるときに、私たちがしんごさんのためにできる、支え、励まし、教え、祈り、祝福という、これらのことを忘れないでください。

In a few moments, Shingo will be baptised into a new life in Christ.
しばらくすると、キリストによる新しい人生のために、しんごさんの洗礼式が行われます。

His [Shingo’s] baptism will mark the end of an old life of sin and separation from God, and mark the beginning of a new life of righteousness in Christ and community with the church.
彼の洗礼は「罪ある今までの古い人生と、今まで神から離れていたこと、神との離別」を終わらせ、終局させ、「キリストにあって義なる新しい人生と教会生活の始まり」を示すものです。

I would encourage anyone who has not yet given their life to Christ and been baptised into His name, to speak with me after the service.
みなさんの中で、まだ人生をキリストに委ねておらず、神の名の元に洗礼を受けていない人は、この礼拝の後にぜひ私に話しに来てください。

Because there is nothing more important than dying to our sins and living for Christ.
「罪に対して死ぬ」こと「神に生きる」こと、この世には、洗礼以外に何も大切なものがないことをわかっていただきたいと思います。

Pray.