An Invitation That No One Should Refuse
拒むべからざる招き

July 5th, 2020

Minoh International Church
Pastor Joseph Ricohermoso
Matthew 11:28~30
マタイの福音書 11:28~30

Introduction

I did a quick search on the internet of the phrase, “refuse invitation.”
「招待を断る」という言葉を ネットで検索してみました。

Amazingly, I found about 45,400,000 results in just 0.45 seconds. There are tips on how to turn down an invitation in the most polite way. There are suggestions on how to decline an invitation depending on the situation, such as invitation to a conference, a business invitation, an invitation to a party, to dinner, a request and many, many more.
驚くべきことに、わずか0.45秒で約45,400,000件の検索結果が出ました。そこには招待状の断り方には丁寧な断り方のコツがあると書かれていました。会議のお誘い、ビジネスのお誘い、パーティーのお誘い、食事会のお誘い、お願いごとなど、状況に応じた断り方の提案が掲載されていました。

In short, there are tons of creative, polite and even funny ways to refuse an invitation. Today, however, I would like to tell you about An Invitation That No One Should Refuse. That is, the summon that comes from the Lord Jesus Christ Himself.
要するに、招待を断るためには、創造的で丁寧な、さらには面白い断り方がたくさんあるようです。しかし今日は、「誰も断るべきではない招待」についてお話ししたいと思います。それは、主イエス・キリストご自身が出される、召喚と呼ばれる断ることのできない招待状の事です。

  1. Christ invites: “Come to Me” – v.28a
    キリストの招き:「わたしのもとにきなさい」 – 28節

Jesus showed His authority when He said, “Come to Me.” This invitation is inappropriate in the mouth of anyone else except God. [I’m not talking about a parent encouraging a child who is learning to walk, “Come to Daddy.”] No man should call people to themselves instead of to Jesus!
イエス様は「私のもとに来なさい」と言う事によって、ご自分に権威があることを示されました。このような招待の仕方は神以外の者が口にすると不適切に思われるでしょう。歩き始めた子供に「パパのところに来なさい」と呼ぶ親の話はもちろん例外ですが、「イエスのところに行く代わりに、自分のところに来なさい」と人を呼ぶような権威は人間にはないのです。

C.H. Spurgeon: “‘Come’; He drives none away; He calls them to Himself. His favorite word is ‘Come.’ Not, go to Moses – ‘Come unto me.’ To Jesus Himself we must come, by a personal trust. Not to doctrine, ordinance, nor ministry are we to come first; but to the personal Savior.”
C.H.スポルジョンは、教団教派を越えて影響を与えたイギリスの著名なバプテスト派の牧師であり、伝道者、説教者です。C.H.スポルジョンは次のように言いました。「神は『来なさい』と言い、誰も追い払わず、ご自身のもとに皆呼び寄せます。神の好きな言葉は『来なさい』です。わからなければ何でもモーゼのところに行きなさいと言う意味の、モーゼの「来なさい」ではなく、イエス様を信じてイエス様のもとに行くと言う意味の『来なさい』でなければなりません。私たちが最初に「行く」べきところは、教義でも儀式でもミニストリーでもなく、私たちの救い主であるイエス様のところなのです。

  1. Christ invites “all you who are weary and burdened” – v.28b
    キリストは「すべて重荷を負うて苦労している者」を招いています – 28節

Jesus directed His call to those who were burdened. He called those who sensed they must come to Him to relieve their need instead of living in self-sufficiency.
イエス様は、重荷を背負っている人たちを招かれました。足りないものは常に満たしたいと言うような、己(おのれ)の欲する心を取り除きたいと思っている人や、イエスのところに『行かなければならない』と感じている人たちに、イエスは呼びかけられました。

According to a Bible commentator the word, weary (other versions, “labor”) implies the burdens we take upon ourselves, and burdened (other versions, “heavy laden”) implies the burdens others put upon us.
聖書の解説者によると、「疲れた」という言葉は、「労働」とも解釈されると言いますが、自分自身にかかる重荷を意味します。「重荷を背負った」という言葉は、「重圧の元にある」とも意味され、他の人が自分にかける重荷を意味しているそうです。

Are you feeling weary because you’re trying to keep up with others? Are you burdened by other people’s expectations?
他人について行こうとするから疲れているのではありませんか?他の人の期待を背負っていることが負担になっていませんか?

Matthew 23:4, is one example of what a burden is, where Jesus spoke against the religious leaders of His day as those who “tie up heavy, cumbersome loads and put them on other people’s shoulders, but they themselves are not willing to lift a finger to move them.”
マタイによる福音書23章4節は、重荷とは何かを示してくれている一例です。イエスは当時の宗教指導者たちに対して、「彼らは、重くて面倒な荷物を縛り上げて、それを他人の肩にのせているが、彼ら自身はその荷物を動かすために指を一本も上げようとはしない」と語っています。

  1. Christ invites us into discipleship: “Take my yoke upon you and learn from me” – v.29a
    キリストは私たちを弟子として招き入れてくれます。「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」 – 29節

Jesus made a wonderful offer, inviting us to “take My yoke upon you and learn from Me.” A disciple is a follower, a learner, an apprentice. We must come as disciples to learn, willing to be guided by His yoke – not merely to receive something.
イエスは素晴らしい申し出をされました。「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」と私たちを招いてくれたのです。弟子とは、従者であり、学習者であり、見習いです。私たちは、単に何かを受け取るだけではなく、イエスのくびきに導かれることを望んで、学ぶために弟子となり、神の元に来なければなりません。

The ancient Jews commonly used the idea of “yoke” to express someone’s obligation to God. There was the yoke of the kingdom, the yoke of the law, the yoke of the command, the yoke of repentance, the yoke of faith, and the general yoke of God.
古代のユダヤ人は、「くびき」という概念をよく使いました。「くびき」というのは義務や責務のことを意味しますが、王国のくびき、律法のくびき、命令のくびき、悔い改めのくびき、信仰のくびき、そして神のくびきというように、神に対する義務や責務を表現するためにも「くびき」という言葉が使われました。

During Jesus’ time, the “yoke of the Pharisees” is the burdensome yoke of self-righteousness and legalistic law-keeping. It has been said by biblical scholars that the Pharisees had added over 600 regulations regarding what qualified as “working” on the Sabbath. That is a heavy burden! 
イエスの時代の「パリサイ派のくびき」とは、独善的で法治主義的な律法の重荷を表すくびきのことを意味しています。聖書学者によると、パリサイ派の人々は、安息日に「働く」ことについて600以上の規制を加えていたと言われています。これは人々にとって大変な重荷でした。

In this context, we can appreciate what Jesus is trying to say. He is simplifying man’s concept of obligation to God by saying, “Forget about all those other yokes. Take My yoke upon you and learn from Me.”
このようなパリサイ派の複雑でたくさんの規律のある状況の中、イエスが主張したことはありがたい事でした。イエスは人間の、神に対する義務という考えをもっと簡単なものにしてくれて、「他のくびきのことは全て忘れなさい。私のくびきをあなたがたの上に担いで、私から学びなさい」と言ってくれました。

If we would just accept His invitation – “Take My yoke upon you” – we would take it, and see what kind of yoke it is.
もし私たちが、主の招きを受け入れるならば、私たちは「神のくびきを負う」ことを受け入れることになります。では、それがどのようなくびきであるかを見てみましょう。

  • The yoke of Jesus is easy and light as compared with the yoke of others.
    イエスのくびきは、他の人のくびきに比べて簡単で軽いのです。
  • The yoke of Jesus is easy and light as long as we do not rebel against it.
    私たちがそれに反抗しない限り、イエスのくびきは簡単で軽いのです。
  • The yoke of Jesus is easy and light to carry because it is the yoke of repentance and faith followed by an undivided commitment to follow Him.
    イエスのくびきは、悔い改めと信仰のくびきであり、イエスに献身的に従うというくびきなので、簡単で軽いのです。

As the apostle John says, “In fact, this is love for God: to keep his commands. And his commands are not burdensome” (1 John 5:3).
「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。(ヨハネの第一の手紙5章3節)」と、使徒ヨハネは言っています。

  1. Christ invites us to know Him personally: “For I am gentle and humble in heart” – v.29b
    キリストは、私たちが神を個人的に知るように招いています。:「わたしは柔和で心のへりくだった者である」 – 29節

Jesus revealed His nature when He described Himself as “gentle and lowly of heart.” It is His servant’s heart, displayed throughout His ministry, making Him qualified to be the one who bears our burdens.
イエス様は、ご自身を「柔和で心のへりくだった者」と表現され、神の性質を明らかにされました。その性質とは、伝道を通して示されたイエスのしもべの心であり、イエスは私たちの重荷を背負う者となる資格を与えられたのです。

It’s true that this is Christ’s personal character. But this is not its primary meaning here. Rather, He is giving a reason why people should embrace His kingdom rule. That is because, He is not harsh, overbearing, and oppressive, like the Pharisees, but meek, mild, and gentle in His government. His laws are reasonable and tender, and it would be easy to obey Him.
確かに、「柔和で心のへりくだった者」というのがキリストの人格であることは間違いありません。しかし、ここではそれが重大な意味を持つことではありません。むしろ、キリストは神の御国の支配を人々が受け入れるべき理由をこの節で示しているのです。それはどういうことかと言うと、パリサイ人は厳しく、威圧的で、抑圧的であったが、神は柔和で、温和で、穏やかな方であると説明してくれているのです。神の法律は理にかなっており、穏やかなので、神に従うことはたやすかったのです。

  1. Christ invites us to a life of rest: “And you will find rest for your souls” – v.29c
    キリストは私たちを安息の人生へと招いてくれます。「そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」 – 29節

Jesus described His gift to His followers as “rest for your soul.” This priceless gift – both powerful and profound – should be considered a hallmark of Jesus’ followers. We should think that something is wrong if we don’t experience this “rest for the soul.” Tranquility and ceasing from striving. A sense of peace and contentment in God.
イエスは、従う者へ贈り物を与え、その贈り物を「あなたの魂の休み 」と表現しました。このかけがえのない贈り物は、パワフルでありながら、奥深いものでもあり、イエスの信棒者たちの特徴だと考えるべきでしょう。私達が、この「魂の休息」を経験したことがなければ、何かが間違っていると考えるべきです。「魂の休息」それは、抗い(あらがい)をやめ、静けさを得ることです。「魂の休息」、それは平安と満足感を神の中に見出すことです。

Jeremiah 6:16, records: 16 This is what the Lord says: “Stand at the crossroads and look; ask for the ancient paths, ask where the good way is, and walk in it, and you will find rest for your souls.”
エレミヤ書6章16節には次のように書かれています。
16主はこう言われる、『あなたがたはわかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ。』

God offers rest to those who follow His way; Jesus now issues the invitation in His own name!
神はご自分の道に従う者に休息を与えてくださいます。イエス様は今、ご自分の名前で私達に招待状を出してくれています。

1 Therefore, since the promise of entering His rest still stands, let us be careful that none of you be found to have fallen short of it.
3 Now we who have believed enter that rest….

Hebrews 4:1 & 3

1それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
3ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。

ヘブル人への手紙 4:1 & 3

  1. Christ invites us to a life that is like no other: “For my yoke is easy and my burden is light” – v.30
    キリストは、他にはない人生へと私たちを招いてくださいます。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」 – 30節

Jesus summarized this wonderful call with this assurance. The yoke is easy and the burden is light because He bears it with us. Borne alone, it might be unbearable; but with Jesus it can be easy and light.
イエス様は、くびきは負いやすく、荷は軽いと確信をもってこの素晴らしい呼びかけをされています。それはなぜなら、神様が私達と共に重荷に耐えてくださっているからです。一人では耐えられないかもしれませんが、イエス様と一緒にいると楽で軽いと言ってくれています。

This isn’t a call to a lazy or indulgent life. There is still a yoke to bear and burden to carry. Yet with and in Jesus, they are easy and light. “Jesus’ yoke is easy, not because it makes lighter demands, but because it represents entering into a disciple-relationship.”
だからと言ってこれは、私達の人生が、苦しみのない、怠惰な人生や甘やかされた人生になると言うことではありません。私達には、まだまだ背負わなければならないくびきと重荷があります。しかし、イエスと一緒にいれば、そしてイエスを信じるとき、私達のくびきと重荷は簡単で軽くなるのです。「イエスのくびきが簡単になる理由は、その負担が軽くなるからではなく、私達が神様と弟子の関係に入るからなのです。」

When training a new animal (such as an ox) to plow, farmers often yoked it to an older, stronger, more experienced animal who bore the burden and guided the young animal through the learning process.
例えば、牛などの動物に田畑を耕す訓練をするとき、農家の人たちは、若い動物を学ばせるために、年配で強くて経験豊富な動物にわざわざ重荷を背負わせて、くびきでつないでいました。

William Barclay: “The word easy is in Greek chrestos, which can mean well-fitting. In Israel, ox-yokes were made of wood…The yoke was carefully adjusted, so that it would fit well, and not gall the neck of the patient beast. The yoke was tailor-made to fit the ox.”
スコットランドの新約学者で牧師である、ウィリアム・バークレーは次のように言いました。「”easy “という言葉はギリシャ語の’chrestos’と言う言葉にあたり、よくフィットするという意味である。イスラエルでは、牛のくびきは木で作られていた。くびきは慎重に調整され、よくフィットし、忍耐強い獣の首を絞めないようにしていた。くびきは牛に合うように誂え(あつらえ)られていた。」

If your yoke is hard and your burden is heavy, then we can say that it isn’t His yoke or burden, and you aren’t letting Him bear it with you. Jesus said it plainly: My yoke is easy and My burden is light.
もしあなたのくびきが硬く、重荷が重いなら、それは主のくびきでも重荷でもありません。あなたはそれを主に背負わせていないと言えるのです。わたしのくびきは容易で、わたしの重荷は軽いと、イエスははっきりと言われました。

Conclusion

First Jesus invites us to come to see and know Him, then to come with Him to win others. There is also the wonderful invitation to come to Him for relief from our burdens and cares. And note His promise to those who do accept His invitation: “All those the Father gives me will come to me, and whoever comes to me I will never drive away” (John 6:37).
まず、イエスは、彼自身を知るために見に来てくださいと、私達を招いています。次に、他の人々を獲得するために、イエスと一緒に来るようにと私達を招いてくれています。また、私たちの重荷や心配事から解放されるために主のもとに来るようにとの素晴らしい誘いもあります。そして、イエスの招きを受け入れる人々に対して、イエスがした約束に注目してください。「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。」(ヨハネ書6章37節)という約束に注目してください。

I would like to read again today’s Scripture passage, but this time in a paraphrased version from [The Message]:
今日の聖句をもう一度読み直してみたいと思いますが、今からメッセージを次のように言い換えてみたいと思います。

28-30 “Are you tired? Worn out? Burned out on religion? Come to me. Get away with me and you’ll recover your life. I’ll show you how to take a real rest. Walk with me and work with me—watch how I do it. Learn the unforced rhythms of grace. I won’t lay anything heavy or ill-fitting on you. Keep company with me and you’ll learn to live freely and lightly.”

Matthew 11:28~30

「あなたは疲れているのでしょうか?疲れきってしまったのでしょうか?宗教に燃え尽きてしまったのでしょうか?
私のもとに来なさい。私と一緒に逃げて、人生を取り戻しましょう。私が、本当の休息の取り方を教えましょう。私と一緒に歩き 、私と一緒に働きましょう。 私のやり方を見てください。優雅なリズムのような、恵のリズムを学んでください。私はあなたに重いものや合わないものは何も与えません。私と一緒にいれば、自由に軽やかに生きることを学べます。」

マタイによる福音書 11:28~30